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痴れ言

無価値感が強い。インターネットのおかげで価値あるものが手軽に見られる時代に生きているからか、今の時代に生まれていなくても感じる性格だとは思うが、自己同一性を獲得することがほぼ不可能であるように思えて仕方がない。

 

この世の人間なんて一握りを除けば代替可能だ。自分が存在していなければいけない場面など皆無で、居なければ他の誰かが取って代わる。他者は自分と出会っていない人生を送るだけ。そういう意味では唯一性、絶対性に価値を見出すこと自体が誤りなのかもしれない。自分が自分であることの意義を自分以外の他者に求めることは出来ない。そもそも価値ある人間である必要性があるのかどうか。自分基準で自立して生きるならば価値など別に必要ないのだろうか。社会的存在である以上他人からの承認はどうしたって切り離せない指標であるが、他者と比較する物差しは大抵の場面で不幸しか運んでこない。

 

素晴らしい曲とか作品を作ったり、何かに取り組んだり、そんな"価値ある"同年代が数多くいることを知っている。或いは好奇心や熱意を持って趣味に没頭したり学問を行う友人も多くいる。自分には何も無い。今他者が自分にあると言う価値とかいうものは、若さとか"有望さ"とかそういうもので、近い将来にそれらは自分の元から消える。自ら獲得したものも取り組んでいるものも何もなくて、何事にも興味を持てない。結局何もせずに他人を羨むことしかしていない現状が情けない。空虚な愚者になるのが怖い。

 

他人を妬んだり羨んだり、他人と比べたり、そうして自分を他人基準で判断することに疲れた。自己否定にも自責にも飽きた。このまま消えてしまいたい衝動と、何も残せずに消えることへの拒絶で葛藤している。シドヴィシャスは21歳で伝説になった。そんな例外を思い浮かべて、自身の凡庸さを受け入れきれずにいる。主観である自分にとっては、自分とは紛れもなく特別な存在であるが、第三者から見れば自分は何者でもない、数多くののっぺらぼうな他人のうちの1人でしかない。理屈ではわかるのに、納得ができない。結局他人を介した自分を意識して虚勢を張っている。

 

理不尽を他人のせいにして今を変えようとしない愚かな自分に呆れて笑える。諦めたつもりになっている欲求がふとした拍子に蓋を開けて叫び出そうとしている。叶えられない望みなのだからさっさと息絶えてくれれば良いのに。満たされることのない欲求なら頼むから死んでくれ。随分とつまらない人間になった。こうはなりたく無いと思っていた大人に着々と近づいている。