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世界

公開がいつになっているかわかりませんが、現在2021年11月6日です。

 

一週間ほど前の2021年10月31日のハロウィンの日に、京王線で無差別刺傷事件が起こりました。その少し前の8月6日に小田急線でも同様の刺傷事件があり、コロナ禍での抑圧の反動なのか、そのような理屈付けをしてよいのか分かりませんが、最近の無差別に人を傷つける事件がすごく印象に残っています。

 

誤解のないように先に言っておきますが、被害に遭われた方々の心身の快癒を心から願うとともに、加害者への厳罰を望んでおります。また、犯人の肩を持つつもりも同情するつもりもありません。その前提で、少し書き連ねようと思います。今回書き残したいのは、『世界』というものに対する捉え方です。

 

上で挙げた事件を耳にしたとき、最初の感想は、「その時間帯に何かの予定が入ってその電車に乗るような事態になっていたとしたら、巻き込まれていたかもしれない。怖いな。」という至極真っ当(であろう)ものでしたが、その次に浮かんだ感情は、「自分も一歩間違えれば加害者側に回りうる。」という危惧に似た不安でした。

 

精神的に病んだ状態での思考回路は本当に異常です。健康を取り戻してから振り返ってみると、あまりの異常性を認識して恐ろしくなるほどに。私は定期的に精神的に沈むことがあるのですが、主に、意気消沈、自己否定、自暴自棄という段階を踏みます。大抵は自己否定の段階で留まって上昇することが多いのですが、たまに自暴自棄の段階まで沈む時があります。この段階での思考回路が恐ろしいほどに異常なのです。

 

自暴自棄の段階では何かを傷つけることが増えます。基本的に矛先は自分自身に向かうので、ある意味自己完結できるのですが、ふとした拍子に矛先が外部に向かう時があります。世界を恨み、憎み、そして誰彼構わず傷つけてやろう、などと。健康な時に考えるとぞっとしますが。

 

1年ほど前の2020年10月23日に大阪のヘップファイブという高層の建物から17歳の男子高校生が飛び降り、下にいた女子大学生を巻き込んで死亡する、という悲惨な事件がありました。なぜ今これを話題にしたかというと、先日の刺傷事件の際に、この出来事を思い出したからです。勿論、これらを1つのトピックの中で扱うことに違和感や嫌悪感を抱く人もいると思いますが、ごめんなさい、書かせてください。

 

この飛び降りの事件の報道を耳にしたとき、飛び降りた男子高校生、巻き添えを食らった女子大生、そして女子大生と一緒にいたという友人の方、それぞれの立場を想像して、酷く苦しい気持ちになりました。無論、誰かの立場に立つという行為は傲慢かつある種の暴力性を伴うことであり、この共感じみたものが彼らの代弁になるなどとは思ってもいません。あくまで自分の主観での気持ちでしかないことをご了承ください。

 

巻き込まれた女子大生には本当に居た堪れない気持ち、やるせない気持ちになります。同じ年代で、同じくらい未来が続くことを前提として生きていた中での急な終わり。理不尽で不条理であんまりです。こんなことが許されて良い訳がない。

一緒に歩いていたという友人の方のことを考えても、押しつぶされそうな気持ちになります。この感情を説明しようと思いましたが、どう書いても恣意的で、この方の気持ちを決めつけるような書き方になってしまうのでやめておきます。

そして、男子高校生の立場に私がいたとしたら、と思うととても複雑な気持ちになります。決めつけるようですが事実として書いてしまうと、下は繁華街であり、誰かを巻き込む可能性には流石に気がついていたのではないでしょうか。
罪なき人でも誰でも良いから巻き込んでやろう、というほどに世界を恨んで憎む気持ちを抱いたことがあるからこそ、男子高校生に同情、と言って良いかわかりませんが、苦しみを見出せるような気がします。無論こんな同情など傲慢なものなのでしょうが。

 

この出来事が起こったとき、世間の声(主にTwitterやネット上の反応ですが)では、人を巻き込まずに一人で死ぬべき、最後まで迷惑をかけるな、関係のない人を巻き込むな、という意見がマジョリティだったと記憶しています。紛れもない正論でしょう。

ただ本質はそこじゃないような気がするのです。ここでもやはり男子高校生の心情を決めつけた言い方をしますが、世界を恨まざるを得ないほどの苦しみを抱えていた人間が起こしたこの行動はそもそも、最期に世界を巻き込んで仕返しをしてやろうとする恨み故のものではないのかな、と。だから、迷惑をかけるな、とか1人で死ぬべき、とかそんな批判は的外れだと思うのです。そもそも世界を恨み、見返すことが目的なのだから。この観点は、一番最初に挙げた無差別刺傷事件にも共通することではないのかな、と勝手に関連づけてしまっています。だからといって罪のない人を巻き込んで良いはずがないことは当たり前ですが。

そして勿論、彼らがそう考えていたと断言できる訳はありません。特に、男子高校生の件に関しては下にいた人を巻き込む可能性に気づかないほどに追い込まれていたのかもしれないし、正常性バイアスが働いて誰も巻き込まないだろうと軽く見積もっていたのかもしれない。こればかりは彼に聞かないと本当の考えはわからないし、その彼はもういません。だからこの意見はあくまで、私が屋上に立ち、ビルから飛び出そうとするその瞬間に考えること、電車で刃物を持ち、誰彼構わず傷つけようと姿勢を低くする瞬間の感情でしかありません。

 

少し我に帰ると上記は本当に異常な感情ですね…。そして、これを読んだ誰かが気を病むかもしれない、誰かを傷つけるかもしれない、それくらいデリケートな話題でもあると思います。これを読む人はそんなに多くはないとは思いますが、無責任にこんな意見を書いてごめんなさい。あともう少しだけ書かせてください。

 

 

世界の中に生きて世界にどのような感情をぶつけるのか、というテーマについて、漠然と考えていたのは多分かなり昔から、明確に考えるようになったのはコロナ禍になってからだったような気がします。正義と正義がぶつかり合って人が傷つけあって利権がどうとか命が優先とか経済も命だとか…。とにかく世界が壊れておかしくなっていく様を目の当たりにした時に、世界に対してどう思っているのか、という平穏な生活では考えないことを明確に意識するようになりました。

 

ここで曲の歌詞を引用させてください。ちょうど去年の今頃に買ったMUCCのアルバム『THE END OF THE WORLD』の一曲目、『THE END OF THE WORLD』の歌詞です。

 

最後には誰もかも だいたい壊れてく
昨日終電に乗り遅れた初老の男は
今朝改札で
自殺したってさ

 

「自殺したってさ」、のところは「死んだってさ」と歌っています。歌詞カードを確認して初めて気が付きました。

口が悪くなりますが冒頭部分では、このゴミみたいな世界をひたすら描くような歌詞が続きます。終電に乗り遅れただけで自殺、それほどまでに男を追い込む世界、そう私は捉えました。

そしてサビの部分の歌詞が

 

THE END OF THE WORLD
世界が 壊れて
僕等は 泣いたんだ
悲しくて 悲しくて

 

最初聴いた時、この歌詞は衝撃でした。その曲を聴くまで、私はこの世界を憎んでいて、だからこそ世界が壊れたら清々しい気持ちになれるような気がしていたから。けれど作詞のミヤさんはそうは書かなかった。世界が壊れて悲しくて泣いたんだ、と。

この歌詞で自分を振り返ってみました。コロナ禍で壊れていく世界を目の当たりにして、私は清清するどころか重い気持ちになっていて、人の嫌な面を見て口がひん曲がるような嫌悪感を抱いていて…。それは恐らく世界とか人々を愛していたが故の感情ではないのかと。性悪説とかゴミみたいなこんな世界は滅べば良いとか、そういう価値観が自分の核となる部分にずっとあると思っていたのですが、本当は真逆だったような気がします。少なくとも現時点では、私の本心は性善説を信じていて、人を信じたくて仕方がないのだと、そう捉えています。よく他人から捻くれてるとかスレてるとか評価されることが多いのですが、実際は恐らく私は他の人以上に、人の善さを信じたくて仕方がないのです。理想主義な性格も多分ここから来ているような気がします。

 

また別の曲の歌詞も引用させてください。こちらは最近聴いたばかりですが、筋肉少女帯のアルバム『月光蟲』の4曲目、『サボテンとバントライン』からです。

 

決死の捜査を笑うように 犯行声明が送られてきた
サボテンマークのレポート用紙に
"僕はこの世を憎む"と書いてあった

 

曲の冒頭で、ネコが爆弾を町までくわえてきて、ギリギリ爆発しなかった、という騒ぎがあります。そして、犯人である少年についての描写が続くのですが、その冒頭が上記の歌詞です。

この後で少年について、サボテンと爆弾をくわえていたネコ(名前バントライン)と映画の3つは好きなこと、次の爆弾騒ぎは映画館で起こしたこと、爆弾は見事爆発したが、少年は放映されていた映画「真夜中のカウボーイ」に夢中で逃げ遅れて死んだことが歌われます。

爆弾騒ぎを起こす、テロリストと呼んでも良いような少年についての歌詞ですが、彼もやはり世界を愛したかったのではないかと私は解釈しています。無情に無感情に世界を壊すのではなく、こよなく愛するものを持ちながら犯行に及び、そして愛するものが故に命を落とす。この展開を因果応報、それ見たことか、と思う人もいそうですが、私としては彼は最後の瞬間だけは、世界への愛とまでは行かずとも、最後に見ていた映画にとどまらない、さらに大きなものへの愛を抱いて死んでいったような気がするのです。

 

世界を憎む感情と世界を愛したいという感情は表裏一体のものなのではないでしょうか。世界を愛したいのに、それを阻むものがあるから世界を憎んでしまう、自暴自棄になった時に矛先が向いてしまう、見返してやろうとしてしまう…。他者に当てはめられる理屈ではないかもしれませんが、少なくとも私には当てはまる理屈です。

 

何度でも繰り返し書きますが、先日の刺傷事件や巻き込み自殺、そして創作の世界ですが爆弾テロなどは決して許される行為ではありません。彼らは間違いなく加害者であり、裁かれるべき存在です。そしてうまく言葉にすることができませんが、被害に遭われた方々やそのご家族、ご友人の快癒を心の底から願うとともに、的を射た表現が英語でしか浮かばないのですが、I'd like to express my sympathy for the victims. とさせていただきます。

 

ここで書き残したかったことは、もっと世界を愛させて欲しい、という欲求…なのかもしれません。私も明確に何かメッセージを持っていたわけではなく、ここ1,2年頭の中で考えていたことを書き散らかしたいだけだったのだと思います。何日かに分けて書いているので、書き始めた当初の衝動が今も続いているわけではないのですが、真っ直ぐに世界を愛したい、これ以上壊れないで欲しい、壊さないで欲しい、という願いを自分の中に見つけることができました。20〜21歳の私はこんなことを考えているみたいです。数年後の私はどうなっていますか?将来の私へ、ぜひ読み返して教えてください。なんて手紙っぽく終わろ