鼓動 遺書 忘却

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「好きな食べ物先に食べるタイプ?後に食べるタイプ?」というド定番の質問。先日この話題を耳にしてからなんとなく考えたこと。

自分は大体後に食べるタイプ。そして他をすべて食べた後にお腹いっぱいになって、好物を食べ損ねる時もあるタイプ。
有名な「この壺は満杯か?」の逸話で、壺の中に岩を入れて、小石を入れて、最後に砂を入れるやつ。食べ物の順番的には私は砂から入れて壺を一杯にしてしまう。人生における大事なものの順番でもそうなのかもしれない。

 

最近気づいた自分の悪い癖のもう一つは、終わりがあるものに対して、終わる時を想定して色々なことを考えてしまうこと。例えば人生。日々の生活の中で何か行動を起こそうとしたり決断をするとき、いつか死ぬということを前提として物事を考えてしまう。そして動けなくなる。
或いは人間関係。特に恋愛とか。別れることを前提に付き合っている。すごく嫌な奴なんだと思う。

いつか自分の元から離れていくことが分かっているものに対して、だったら今を楽しんでやろう、っていう人と、それならば手に入れない方が良い、って人とがいる気がする。私は完全に後者で、失うことが辛いから知らない方がマシ、と思ってしまう。

 

何かを手に入れてしまうと、限りなく欲深くなっていく。それは人間として当たり前のことで、マズローの欲求段階なんかは高校で習った。けれど、欲深くなればなるほど不幸になる。欲求が高次になればなるほど手に入れることは難しいから。

今の自分は相当に欲求が満たされた状態だと思う。飢餓の心配をする必要はないし、明日の命が保証されていないような危険地帯でもない。大学生、という社会に帰属できる属性も持っている。友人に恵まれているし、存在を認めてもらえている(と思う)。生きる気力も最近はかなりあるし、目の前の課題を乗り越える努力もそれなりにできている。それなのに、まだどこか満たされない気持ちを抱えて苦悩している。

 

近頃は、割合い高めの頻度で手に入れられる程度の欲求を常になんとなく抱えた状態が一番幸せなのではないのかと疑っている。例えば数ヶ月に一度一人旅をする、とか、サイクリングで綺麗な夜景を見に行く、とかそのレベルの欲求。

昔諦めたはずの欲求を思い出して苦しくなることが最近あった。得られないなら望まなければ良い、なんて十年前の自分が聞いたら「なんてつまらない人間になったんだ」と呆れそう。逆に十年後の自分はどうだろう。「何諦めたフリしているんだコイツは」となるのかな。

 

「明日地球が終わるとしたら何をする?」なんて質問も月並みなものだけれど、それも先日話題に上った。自分のいつもの返答は、「お世話になった人たちにお礼を言いに行く」だった。
これは別に自分のやりたいことではなくて、やらないといけないこと、義務感からくるものだと思う。もちろんそうしないと死ぬに死に切れないだろうから、明日隕石が衝突するなら間違いなく色々な人にお礼を言った後に家族と過ごす。ただ、明日本当に自分の命が尽きるとした場合の本当に「やりたい」ことを考えてみた。そうしたら何も思い浮かばなかった。今も何も思いつかない。どうしたいのだろう。

 

欲望を抑える、昔の人なら隠居のような俗世から遠ざかる行為は日本人には美徳とされているように思える。自分もめっちゃ日本人なのでその価値観を強く持っているけれど、果たしてこのままで良いのか分からなくなってきている。死ぬその刹那 ーまた終わりから物事を考える自分の悪い癖だけれどー に後悔する気がして、けれど日常生活での内心の平静を保つには何も望まない方が楽で、なんだかがんじがらめな気分になる。

 

どうしても思考がぐるぐるとループしてしまって良くない。別に話のオチも結論もない。他人とこういったことについて話したい気持ちになるけれど、暗いし結論も無いしでなかなか難しいよね。