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ちょっとした日記。

久しぶりに母と長い時間会話をした。最近の会話といえば、内容のない軽い会話とか、母親が愚痴とか弱音を吐いて、私が適当に同意したり相槌を打つだけだった。介護とか仕事で身体的にも精神的にもキツそうだし本当はもっと親身になるべきなんだけれど…。本当に久しぶりに内容のある会話だった。

 

将来の不安というほどでもないけれど、社会人が何してるのかわからないし、大学院での研究も何がしたいかもやっていけるかもよくわからない、という懸念についてなんとなく零してみた。

 

すごく真剣に、人生・社会の先輩として色々話をしてくれた。結局、仕事が出来ない人にはなりたくないとか、妥協は出来ないみたいな人間性を私は母から受け継いでいるみたいだから、仕事に対する姿勢とかはきっと母親に似るような気がした。やりたいことをやって生きていける人は一握りだけれど、就いた仕事の中で楽しみを見つけるのが社会人の多数の生き方だということと、あまり理想を高すぎず持って、期待しすぎずに楽しむように、ということを言われた。社会に出ていない私には正しいとか間違っいてるとかいう判断は下せないけれど、まあなんかたぶん正しそう。

 

腹を割って話をしたのはいつぶりだろうか、なんで悩みを零す気になったのかあんまり覚えていない。

 

別に親子関係が悪いなんてことはない。むしろ仲は良い方だと思う。ただいつの日からかどことなく他人として接するようになっていた。親でありながら少し接待染みた対応で、求められているのは意見ではなく同意、自分のことを話したところでわかってもらうことは出来ないし別にいいや、みたいな。母も母で私に対して言いたいことは沢山あるだろうに、言わないでいてくれている。そこに甘えて距離を取らせてもらっている。気を遣ってあまり深いところには踏み込まないでいてくれる母は本当に立派で素晴らしい理想の母親だと思う。

 

今日の久方ぶりの対話で、未だに親離れしきれていない自分がいるような気がした。頭では別の人間だと、他人だと分かっているのに、母親だから、という理由だけで一心同体でありたかった、なんて欲望があるらしい。わかってもらえっこない、なんて諦めてる振りをして、というか、諦めなくちゃいけないってことはどこか期待しているってことだったと思う。会話は成り立っているのに、根本の価値観や話の焦点がどこか噛み合わない違和感を感じたとき、やっぱり別の人間なんだと痛感した。母親は真摯に向き合ってくれたし、改めて尊敬し直した。多分誰も悪くないし、そもそもこれは悪いことでもない。自分の精神的な自立の結果なんだと思う。なんか寂しかったっていう、それだけ。

 

将来の不安は尽きないけれど、あんまり気張らなくても良いのかもしれない。気楽に目の前の課題をこなしていくかな。